【世界遺産】カルナック大神殿~圧倒的スケール!大列柱室とオベリスクは必見(エジプト文明・遺跡・ピラミッド・考古学・歴史・ルクソール)

【世界遺産】カルナック大神殿~圧倒的スケール!大列柱室とオベリスクは必見(エジプト文明・遺跡・ピラミッド・考古学・歴史・ルクソール)

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エジプト考古学者の河江です。 こちらエジプト最大の神殿である カルナック・アメン大神殿に来てます。 ここはねエジプトの、今言った通りに最大の神殿なので めちゃくちゃデカいです。 実際にこの広さというのがどのくらいかというと、 自分の定義(説)にもよるんですけれど、 100ヘクタール以上に及ぶ 広大なエリアじゃないかってよく言われていたりします。 その中のメインの部分だけ 今日はちょっと見ていきたいと思いますが、 ちょうど正面の方に見えているのが、 これは第30王朝のネクタネボ1世という王によって造られた 第1塔門ということになってます。 この神殿というのは非常に古い歴史を持っており、 その歴史は元々は紀元前2000年ごろ、 今から約4000年前の中王国時代に遡ります。 そこから後期王朝(末期王朝)の時代までということで、 実にその歴史の長さが約2000年です。 ある種約2000年にわたってずっと聖地だった場所が ここカルナック・アメン大神殿になっており、 そのためここは非常に古い時代のものから 遠心状に花が開くような形で、 外側に外側に新しい遺物というのが、 建造物というのが建てられているというのが 一つの特徴ということになっています。 この第1塔門の手前のところには、 スフィンクスが参道にちょうど並んでいますが、 顔のところを見ると、 人間ではなくヒツジの顔であることがわかると思います。 このヒツジ、 ここカルナック神殿の主である、 エジプトの最高神であるアメン・ラー神の聖獣が ヒツジであるため、 ヒツジの顔をしたスフィンクスが 参道に並んでいるということになっています。 神殿によってはこれがワニだったり、 別の顔の形、動物の形になっているのですが、 ここカルナック・アメン大神殿のところでは ヒツジの顔をしたスフィンクス群、 これが参道ということで並び、 ちょうど今私がいるところが これ波止場になってます。 本来はこのすぐ側にナイル川が流れてきて、 そのナイル川の波止場のところに船が浮かべられ、 その船に乗って南のルクソール神殿、 そちらのところまで向かうというような儀式も 行われていました。 それでは、中に入って行きましょう。 おぉそうだ。 これ忘れてた。 オベリスクも立ってるんです。 これはセティ2世のオベリスクということで、 本来こちらちっちゃいこじんまりとした オベリスクなんですけど、 こことそっち側にもオベリスクがあったんですけれど、 今現在現存しているカルナック神殿のオベリスク、 実は3本しかないんですけどね。 そのうちの1本ということになっています。 残りの2本はめちゃくちゃデカいです。 それはまた中で見てみましょう。 ここがカルナック・アメン大神殿の 第1の中庭ということになっています。 この中庭のところに置かれてあるのが ちょうど真ん中に見えるでしょうか? エジプシャンアラバスターで作られた、 あれが供物台ということになります。 あそこのところに人々が供物を捧げる台があってですね、 ちょうどその台のところ、 今度左右のところ今現在は1本しか残っていないんですけれど、 柱が立っています。 その柱なんですけれど、 上のところを見ると、パピルスが花開いたような状態に なっているということで、 開花式パピルス柱という こちらは柱になっています。 これはヌビアで王になった南の国ですけれど、 タハルカという王によって建てられたものになっています。 ここは元々中庭だったので、 その中庭のところにこういった柱を立てるというのは、 ヌビアの方の神殿ではいくつか見られるところで あるわけなんですけれど、 その特徴もここでは出ていますね。 この中庭のところには、 そちらの方も見ましょうか。 見ていただくと、また3つの祠があります。 これは元々は外側にあったものが 拡張工事によって中に入ってきた、 セティ2世という人が作らせたもので、 真ん中ここがアメン・ラーの礼拝堂、 そして左右の方にあるのが彼の妻であるムト女神と、 その彼らの息子コンス神の それぞれの礼拝堂ということになってます。 この辺は神社とかと同じような形で、 神社の中にも色んな神様の像が置かれてあったり、 あるいはお寺のところなんかにも仏像が それぞれ色んなところに置かれてあったりするのと 同じような形で、 アメン・ラーのこの神殿のところにも 1体だけ神の御神体があるというのではなく、 様々な時代に造られた、 やはりこういった礼拝堂の中に船の形をしたお神輿と、 その船の形をしたお神輿の真ん中のところには、 基本黄金で出来た、 当時神の肉体というのは 黄金でできていたと考えられていたため、 その黄金で出来た像が置かれていたということになっています。 そこもそうですね。 入口一つなんですけど 中に入ると3つある、 これはラメセス3世によって造られた 同じく礼拝堂ということになっています。 ここのところにもアメン・ラー、ムト、コンス、 この3柱を安置する それぞれの祠があるということになっています。 あともう1点。 こちらのところを見ると、先程見たですね、 巨大な塔門の裏側になっています。 この塔門なんですけど、 実際表面なんかがガタガタであることからも分かる通りに 未完成にして終わってます。 右側の方など上の方まで完成していないですよね。 ただ未完成に終わっているということで、 これ作り方が分かります。 その作り方が分かる1つの特徴というのが、 ここを見てもらうとですね、 日干しレンガの傾斜路なんですね実は。 傾斜路が残っています。 この傾斜路の形状というのは、 何て言ったらいいのかな? ちょっとぐるっと回るような形で、 ちょっと直線的というよりReconstruction、 復元であるのはちょっと少し回るような形で 上まで実際に延びていたのではないかと考えられています。 面白いのが、 なんでしょうね、 ここは擁壁とか言ったりするんですけど、 壁があって壁があって壁があって壁があってっていう 作りになってますが、 古王国時代のピラミッドを建てる時に作られた、 礼拝堂…失礼。 ramp、たまに日本語忘れちゃいますね。 今説明しているのに。 傾斜路もそうなんですけれど、 2つの壁を作って、 その中に瓦礫とかを入れたりするんですけれど、 ここもある種同じような形になってますね。 ここのところにやはり大きな壁が作られて、しっかりとした。 あとのところはもう少し緩やかな形で、 中のところ充填剤的なものを入れるという そういった作りになっていたんでしょう。 本来はガタガタの石を上まで乗せて、 こちらのところ傾斜っていうのを低くしながら、 表面というのを削っていったりするというのが 特徴になっています。 ではまた中に入っていきましょう。 そして今度ちょうど私が立っているのが 第2塔門という門の前に来ています。 こちらのところがその第2塔門になってますね。 第2塔門のところ、 何度も言う通りにカルナック神殿というのは 時代によってどんどんどんどん拡張工事をしているので、 第30王朝のネクタネボ1世より前の時代、 私たちはまだ(中心地より)外にいるというような状態に なっています。 新王国時代にはここが入口だった訳ですね。 そして入口のところには見ていただくと分かる通りに 巨大な立像が建っていますが、 これは建築王として名高いラメセス2世が建てさせた 像になっていますね。 元々はここに1体1体とアスワン産の赤色花崗岩でできた ラメセス2世の像があったのですが、 今現在は1基だけ残っているような形になっています。 ラメセス2世は建築王として名高く、 その67年間の治世の間に様々な建造物を建てていましたが、 彼はやっぱり名前の書き換えも色んなところで行ってですね、 以前の王が作ったものを自分の名前にしていたりしています。 その中で自分のものは書き替えられないように深く掘ったり、 オベリスクとかだったら底辺のところに 名前掘ったりしているんですが、 そういったことをしながらも後の王、 これパネジェム1世という神官王によって 名前の書き換えが行われたのが、こちらの方の像。 これ現在はパネジェムの巨像と呼ばれていたりします。 ここですね、見ていただくと、 これはカルナック神殿の心臓部にもなっているんですが、 元々は巨大な門があり、 ここには何でしょうね……扉か。 門扉があったことが知られています。 これは古代の文献というかTextual evidenceの中に 書かれてあるんですけれど、 青銅で表面を作られた巨大な門がここにあったと。 青銅というのは磨けば本当に金のように光ることが 知られていますが、 この扉というのを開いて、 儀式の時には中に入ったということになります。 通常儀式以外の時には こういった門というのは閉じられていて、 普通の人たちというのは 側面から入ることができるようになっているんですが、 側面から入る…まぁそことかね。 そちらなんかもそうなんですけれど、 入ってきたのではないかと言われています。 では中に入ってみましょうか。 ここのところ見ましょうか。 ちょうどね、これが説明していたところなんですけれど、 船のこちらの方、お神輿があるのが分かりますか? ここにいるのがファラオ。 ここのところはラメセス2世ですね。 ラメセス2世がいて儀式を司っていて、 ここのところにアメン・ラー。 このアメン・ラーの神輿であるというのが分かるのは、 船首と船尾がやっぱりヒツジの顔をしているので、 これがアメン・ラーの神輿であるというのが分かります。 そしてこの真ん中のところに厨子があって、 この厨子の真ん中に 黄金でできた神の御神体というのが置かれています。 なかなかこの黄金で出来た神の御神体そのものというのは 残っていないんですけれど、 どこにあるかな? メトロポリタンなんかに黄金で作られた、 小型のものなんですけれどそれが見つかっていて、 あれは末期王朝だったと思うのですけれど、 (※実際は第3中間期) そういうものが中にあるというのはね、 イメージしてもらえばいいんじゃないかなと思います。 下のところ、 コンス神とムト女神のそれぞれ神輿が置かれてあるのが 分かると思います。 それがこの儀式の際に大列柱室の中に入っていった、 あるいは大列柱室から出てきたということになっています。 すごいですよねこの大列柱室。 ここはめちゃくちゃ修復綺麗にされてます。 修復といっても、色とかは塗ってないですよ。 ダストだけが取られている状態なんですけれど、 私が昔来た時にはここまでまだね、 綺麗に修復されてなかったんですけれど、 色が少しだけ…すごいですよね。 復元されてますね。 もう一回言います。色は塗り直しはしてないです。 ただ表面のダストとかそういったものをしっかり取った結果、 ここであれば3000年以上の昔の色が 今現在でも見れるということになっています。 本来こういった神殿もそうなんですけれど、 全て色が付けられてあったわけですよね。 それを考えると、 全く違うイメージが広がるんじゃないかなと思います。 これはすごいな、見ていきましょうかね。 すんごいですよねやっぱりね、ここ大列柱室何度来ても。 134本の柱があって、 内のこの21本かのところがちょっと高いんですよね。 22本か?何本だ?分かんなくなった。 1,2,3,4,5,6,7, 8,9,10,11…12本だ。12本。 21と12が逆になった。 12本がちょっと高くて、これが開花式パピルス柱になってます。 こことか光が綺麗に映ってて美しいですよね。 本来こんな色だったんですよ、 この神殿の柱の形というのは。 ここのところはイメージとしては、 古代エジプトの神殿というのは世界が生まれた その原初の場所だっていうイメージがあるので、 神殿の周りの周壁っていうのは 原初の海ヌンを表すようにして、 凹凸が出るようになっていて、 神殿の一番奥の至聖所というのは、 当然ながら台座があって盛り上がるような形になってますが、 そこがエジプトで最初に生まれた原初の丘で、 その原初の丘の周りには実際に原初の沼があって、 林立しているような形に パピルス柱がなっているんですけれど、 ここがそうですね。原初の沼のイメージですよね。 ちょっと沼の中をうろうろしてみましょうか。 122本か。そういった意味では。 この閉花式… 今度パピルスが閉じるような状態になっているのは。 本来この辺ってね屋根もあって薄暗い空間だったんですよ。 うわあスゲー。 こっちから見る景色も修復作業もしてるんですけれど、 綺麗ですねぇ。こけないようにしよう。 すごいな。 いやぁこの修復を見るのは私は初めてですね。 修復後のカルナック。 カルナック神殿自身にも何回来てるんだろうなぁ。 ちょっと昔ガイドしてたのもあるんですけれど、 何百回も来ているのですが、 やっぱり修復されたたカルナックを見ると、 すごいなと思いますよね。 本来は原初の沼なので薄暗い空間です。 薄暗い空間の中に閉花式パピルス柱の122本と、 開花式パピルス柱の12本の高低差、高さが違うので、 それを利用して。 閉花式パピルス柱は15メートルくらいだったかな? 高さが違うので その高低差から明かり窓を、 ああいったところにも見えてますが、 明かり窓を使って光が入り、光が入る、光が当たる、 パピルスが花開くということで開花式にして、 残りの122本というのはあまり光が入らない。 明かり窓がいくつか設けられているんですけどね。 閉花式って形になってます。 想像してみてください。 ここのところに全部色が塗られていて、 薄暗い空間の中、光が上から差し込んで、 そしてパピルスが花開くような柱と 閉じているような柱があり、 その中を王が儀式の中、神輿を担ぎ、 荘厳な雰囲気の中でですね、 神の御神体というのを至聖所から運ぶ、 あるいは至聖所に戻すということを行っていたわけですね。 すごいなエジプト。 久しぶりに2年ぶりに来ると思っていたものが、 なんかこう湧きあがりそうですね。 大列柱室でした。 そしてここ カルナック神殿のちょっと外側になるんですけれど、 非常に重要な碑文があります。 ここですね、この碑文。 これが世界最古の和平条約文になります。 ラメセス2世が現在のトルコ、 ヒッタイトと戦ったカデシュの戦いという戦いがありますが、 この戦いの後、ヒッタイト側とエジプト側が 和平を結ぶということになっています。 ヒッタイトというのは元々鉄器、鉄製の武器を持って この辺りオリエント地方全域を席巻したという風に 言われていますが、 実際のところ、実はまだ鉄器というのが 具体的な形で大量にバッと出てきたのかというと そうではなく、 本当の意味でのヒッタイトの強さというものの 一つなんですけれど、 これは外交にあると言われています。 その外交の際にラメセス2世とヒッタイト側が結んで、 相互不可侵。 どちらもどちらの領土を侵さないとかですね。 そういったことなんかが ここのところにずっと書かれてあります。 そしてこれは当然ながらヒッタイト側からも発見されていて、 現在のトルコのボアズキョイ(ボアズカレ)ですね。 あちらのところに楔形文字で書かれた 和平条約文というのが見つかっており、 これは向こうの博物館の方に置かれています。 ただいずれもこれはおそらくコピーで、 オリジナルは銀のタブレットに書いていたということが、 これも他の考古的な資料から分かっています。 ただそのオリジナルのものは見つかっておらず、 そのオリジナルのものから残された 古代のコピーなんですけれど、 それがエジプトにはカルナック・アメン大神殿の 大列柱室の南側、 ここに置かれてあるということになります。 こちらがそうですね。 この古代の和平条約文に関して言えば、 今現在私は行ったことがないのですけれど、 どうも国連の壁か何かに書かれてあるという話を 聞いたことがあります。 やはり和平というのは、 もう古代から現代に至るまで非常に重要な 文明というものを発展させる、 本当に基礎となるものなのですが、 それをやはり国連考えてですね、 その世界最古の和平条約文というもののモチーフというのを 使っているんでしょう。 そしてこちらのところ、第何塔門だ? 第1第2第3第4かな? 塔門の目の前に来ています。 元々第18王朝ツタンカーメンとか アメンヘテプ3世とかトトメスとかハトシェプストとか こういった歴代のファラオたちが活躍をしていた時代は、 カルナック神殿はここまででした。 第19王朝になるとラメセス2世、 そしてその父親であるセティ1世、 (祖父の)ラメセス1世という 王たちによって大列柱室がつくられ、 神殿というのが拡張工事をされていたのですが、 元々はここまでですね。 そしてこの神殿の入口に立っていたのが オベリスクです。 デカいですよね。 このカルナック神殿には元々おそらく 文献的な資料から考えると、 20本前後のオベリスクが建っていたと考えられています。 うち現存しているオベリスクというのは、わずか3基。 最大のオベリスクというのが高さ30メートル、 重さに至っては323トンとも言われていますが、 ハトシェプスト女王が作らせた オベリスクということになっています。 次いで大きいオベリスクというのが、 こちらのところトトメス1世によって建てられた オベリスクです。 本来はいずれも2基のオベリスクが建っていたのですが、 それぞれ今現在は1基ずつしか残っていません。 しかしこういうのを建てるというのも めちゃくちゃ大変ですよね。 これどのようにして建てたのかというと、 実際にこれも傾斜路とあと砂を使うんですけれど、 砂の山とあと傾斜路を使って オベリスクを横倒しにして運び上げます。上の方まで。 あるところまで来ると、今度は砂というのを 下に堆積しているのを除けながら、 その砂がざあっと少なくなっていく時に、 オベリスクも斜めに落ちていく。 あとはロープで引っ張って立てるということになっています。 こちらのところは推測ではあるんですけれど、 実際オベリスクの下のところに行くと、 そのオベリスクが台座のところにひっかかって立てられるような くぼみも残っています。 そちらのところ見に行きたいと思います。 くぼみですよね。 オベリスクがバッと来た時にここのくぼみにひっかかって、 よいしょって立てるような形。 このくぼみがないと そのまま重さで滑っていっちゃったりしそうなので、 こういったくぼみなんかも付けているので、 こういうのも非常に考古学的に重要な跡ということになっています。 そうして最大のオベリスクがこちら。 ハトシェプスト女王のやつですね。 ここを見てみましょう。 向こうに行ってみましょうかね。人が多いので。 おおデカいぜ。 エジプトの文明、やっぱりスゲーな。 デカいですよね。 なんでコソコソして話なのか分からないけど。 300トンを超えるオベリスク、 ハトシェプスト女王が作ったものです。 学生時代の思い出としては、 私の学生時代に古代エジプト語ヒエログリフ、 それこそ学部1年の頃から取っていて、 最初に本当にアルファベットというか、 文字の書き方から学んで、読み方を学ぶんですけれど、 その後に最初に読んだ碑文というのが、 このハトシェプスト女王のオベリスクの碑文なんですよね。 ここのところにはタイトルだけなんですけれど、 下の底辺のところにはハトシェプスト女王が 実際にこのオベリスクを建てた経緯と、 そしてこれをどれくらいかけて作ったのかという その期間なんかについて書かれてあるという非常に面白い こちらは碑文になっています。 懐かしいですね。 ハトシェプスト女王は第18王朝の女性のファラオとして、 このエジプトに君臨をした人物になります。 これはただ女性として君臨するというのは 当時のエジプトの習慣からすると、 非常に稀なほぼなかったことということで、 その後トトメス3世という自分の義理の息子になるんですけれど、 その義理の息子であるトトメス3世が彼女の存在というのを ある種正そうというか、消そうということで、 彼女が作り上げた建造物というのを破壊したり、 あるいはカルトゥーシュを削ったりした、 そういった跡が残っています。 このオベリスクもそのうちの一つなんですけれど、 ただ以前言われていたのは、 トトメス3世は元々は自分が王になるはずだった、 ファラオになるはずだった、 それをさせなかった義理の母親であるハトシェプスト女王を 恨んでいたんじゃないかという話があったのですが、 最近の説ではそうではなくて、 こちらのところはトトメス3世は元々はやはり 古代エジプトの習慣として男性がファラオになる、 それを女性がなったということで、 そちらのところを当時の習慣としては正そうとしてですね、 歴史を直していったんだと言われています。 実際に彼自身がそれを行ったのは、 彼の息子トトメス…失礼。 アメンヘテプ2世というのがいるんですけれど、 そのアメンヘテプ2世自身の 王位の正当性を担保するためであったと言われています。 そのためにハトシェプスト女王がいなくなった後、 すぐにトトメス3世が 彼女の名前というのを削っていたのかというと、 そうではなく、かなり時間が経ってからなんですね。 ここもそうなんですけれど、 ハトシェプスト女王のオベリスクがあれば、 拡張工事をする際に このオベリスクというのをある種を囲むようにして、 壁が一部残っていますが、 こちらのところ高さが出ていますよね? そのために上の方と下の方の色というのは、 こちら壁に囲まれて光が当たった部分と 光が当たらない部分ということで、 色が少し変化しているということになっています。 ただ壁で囲った時には、 まず名前は削られていなかったのですけれど、 その後に実際に名前が1度削られるようになったということが、 こちらの方も研究によって分かっています。 本当にそういった意味では 複雑な建造過程なんですけれど、 カルナック・アメン大神殿、面白いですね。 見ていきましょうさらにどんどん。 今は人がいっぱいですけど、 ここが古代においては ずっと2000年間に渡って重要だった場所ですね。 カルナック・アメン大神殿の心臓部、 至聖所、Holy of Holies。 Sanctuary(聖域)ですね。 ここに巨大な石の台座がありますけれど、 神の御神体を乗せた 聖なる船があったということになっています。 今はほとんどが壁画の方風化してなくなっていますけれども、 その置かれていたところと、 あとその置かれていた神アメン・ラーに対しての こちらのところは儀式が描かれていますね。 朝の儀式。 朝起きて、神官が(身体を)清めて中に入って、 お香を焚いて神の御神体というのを清めて、 衣替えということで装飾を変える儀式なんかが 行われていたんですけれど、 それを実際に永遠に残すというような意味で 壁画にも残して、 既に崇拝されなくなった後でも、 それが永遠にこの壁画によって担保されている。 そういった形になっています。 屋根の方が今ほとんどが修復なんですけれど、 一部あちらの所なんかを見ると、 他のピラミッドの中で、 ウナス王のピラミッドでも見たような星が やはり見えているのが分かると思います。 基本的にはこれはやはり古代の、 元々王朝時代の最初期の時に、 こういう作りだったんでしょうね。 実際に星が太陽が見えるような櫓、 そこのところで神の社のようなものがあった、 そこから来ているんだと思います。 ここが至聖所で、 至聖所のすぐ側にハトシェプスト女王が作らせた 一つの礼拝堂のようなものがあるんですが、 ここに彼女の存在が消されようとしていた跡が残っているので、 見てみましょう。 ひんやりとしたね雰囲気なんですけど、 ここを見てください。 見てもらうとこれはファラオの姿が 削られているのが分かりますか? 神々がちょうど上から水を注いでいるシーンがありますが、 水の1滴1滴が生命力のしるし「アンク」になっていますよね。 ここで削られている人物というのが 名前が書かれています。 削られてはいるんですけれど、 その後から「マアトカーラー」 ハトシェプストの女王であるということが分かります。 カルトゥーシュ削られていますよね。 真ん中のカルトゥーシュを見てもらうと一部残っていますが、 ここのところは「アメン」という名前が入っています。 例えばツタンカーメンであれば トゥト・アンク・アメンということで、 エジプトの最高神であるアメン・ラーの名前が残っていたり、 アメンヘテプであれば「アメンを満足させし者」ということで、 やはりアメンの名前がある。 ラメセスであればラー(太陽神)のメス(息子)ということで、 古代エジプトの王の名前というのは、 往々にして神々の名前が入っているんですが、 ハトシェプストも実際にアメンの名前が使われています。 こういったものを削る時に、 やはり言葉自体に力があると考えたエジプト人は、 このアメンの名前を削るというのを恐れたのでしょうね。 そのためにこの名前だけは残して、 他の部分を削っているということになっています。 興味深いのは ハトシェプストのこういった遺物というのを完全に、 例えば壊して再利用するのではなく、 これを削ったということを記録として残している。 それもこの至聖所のすぐ側の重要な場所に 残しているというところが、 特徴的なところでしょう。 トトメス3世が行ったというのは、 単に恨みに思ってこの彼女の存在というのを 削った壊したというのではなくて、 王位の正統性というのは男性に受け継がれるべきであるという、 そういった宗教的思想のもとに 彼女の存在というのを削っていったために、 そのことが二度と起こらないように記録として ここに残しているんですね。 これがやはり非常に特徴的なところだと思います。 ハトシェプスト。 歴史から削られた消された女王なんですけれど、 今現在3500年経った後でも その跡というのがここに残っています。 あっちぃ。 ここがカルナック大神殿発祥の地です。 今現在見ていただくと何もないね、 広場のようなものが広がっているんですが、 今から約4000年前に中王国時代、 ここでカルナック神殿の神殿の基礎となる部分が建てられており、 これは発掘調査なんかからも分かっていて、 今こういう形でその一部が露出しているのが分かると思います。 こちらのその基礎部が、 その一部ということになっています。 ここもそうですね。 アスワン産の赤色花崗岩の、 これは柱のおそらく土台だと思われますが、 そういったものも残っています。 ここからブワッと外に外にと円心状に広がるような形で カルナック神殿複合体が広がっていった。 そのような形になってます。 このあたりトトメス3世の作った礼拝堂なのですけれど、 後にこういったところ、 コプトの聖人が、 キリスト教の聖人の絵が描かれているのが分かると思います。 やはりこういった神殿というのは、 キリスト、そしてその後イスラム、 そういった別の宗教でもある種聖地として用いられて、 その跡というのが色んなところに残っていたりしますね。 奥行きましょうかさらに。 ここに残ってますね。 ここまで来ると観光客も少ないですね。 レリーフもあまり残ってなさそうなんですけれど、 ここ結構重要なレリーフがあるんですよ。 これもトトメス3世の時代のものなんですけれど、 植物園とか呼ばれてますね。 トトメス3世はその治世の中で、 エジプトの領土を最大に広げていったのですけれど、 そういったところから自分が様々な珍しい 動植物を持ってきたのですけれど、 これうっすらとしているのでめちゃくちゃ分かりにくいんですが、 この辺まだ分かりやすいかな? その色んな植物・動物なんかが描かれていて、 それがリスト化されているところがこちらになります。 こちらでカルナック・アメン大神殿が終了となります。 実際には1日かけて回っても まだまだ見るところはあるんですけれど、 今回その中でも主要な部分というのを紹介していきました。 本当に今回YouTubeチャンネルの方で 色んなところを紹介しているんですが、 やはり一番言いたいのはぜひエジプトに来て、 この暑さを含めて 皆さんに遺跡を堪能していただきたいと思います。 それじゃ! ご視聴ありがとうございました。 これからもどんどん 良質な古代エジプトのコンテンツを 上げていきたいと思いますので、 引き続き… イイねボタンと、 チャンネル登録! よろしくお願いします!

2022-10-26 10:00

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